前回のブログ更新が1年前、シベリア滞在記の続編を書くつもりが1年も放置してしまいました。今回はそれよりもぜひ書いておきたい話題があるので、そちらを書くことにしました。
実は2011年と昨年の計二度にわたり、延べ2か月間、ウズベキスタンのフェルガナ地方のキルギス国境の街リシタン(Rishton)に滞在したことがあります。そこでは、人口2~3万人程度の小さな町なのですが、日本人が歩いていると子供たちが『こんにちわ』と声をかけられるような日本語が響き渡る町であります。
さて、リシタンとはどういう町なのかについてはwikipediaの項目のリシタンを参照してください。大まかに言うと、ウズベキスタンの首都タシケントからおよそ230㎞離れたフェルガナ盆地にあるキルギスとの国境を接する町なのです。日本で言えば地方の農村部にあたります。ここは陶器産業が有名であり、各地にはリシタン陶器の工房があり、日本や世界でも高い評価を得ています。
日本語が響く街リシタン
そして、そんな地方の農村部には現在、日本語を勉強する子供たちが沢山いて、日本との深いつながりが生まれています。そこに、日本とのつながりが生まれたのが1990年代半ばになります。大手企業に勤める日本人技術者の大崎さんという方が仕事の関係で1990年代にウズベキスタンフェルガナ地方に頻繁に渡航し、通訳者のガニシェル氏に出会い過ごします。ウズベキスタンのかつての日本を思わせるようなまだまだ貧しいこの農村部を気に入り、そこでの子供たちに日本とのつながりの場を提供したいと考えました。退職後、夫妻でここリシタンに退職金等の私財を投入して日本語を無料で学べる学校を作りました。それが、1999年になります。ガニシェル氏はリシタン出身の著名な陶芸家であるアリシェル氏の弟で、アリシェル氏の陶器工房の中の小さな部屋を改築して日本語教室を作りました。大崎さんの奥方の名前を使って『ノリコ学級・Noriko Gakkyuu』と名付けられました。そこでは、学費を取らずに子供たち、あるいは大人も含めてリシタンの人々が自由に日本語を勉強したり、日本文化に触れる機会を提供しようという目的で作られ、学費を徴収したりするのではなく、子供たちの遊び場としての目的で設置されました。その後、大崎氏がガンに倒れてしまい、奥様も病気になってしまいました。そして、2005年に大崎氏が逝去されました。その後、大崎氏の活動を継続して支えていこうとして、政府には登録はされれていませんが、NPO団体のような組織のRJC(リシタンジャパンセンター)を大崎夫妻の友人が中心となって設立しました。
RJCは大崎夫妻の友人の他、シベリア抑留経験者やロシア語通訳者、元外務省ウズベク大使、中央アジア研究者等のウズベキスタンに関連の深い人々が参加し、基金を設立してこのノリコ学級を支えていこうとして発足されました。そして、ウズベキスタンのリシタンでの管理者が通訳者であるガニシェルナジロフ氏となって、現在に至ります。およそ20年間近くに渡り、この小さな町で日本語教育が行われ、多くの日本人が渡航滞在し、また、多くのウズベク人が日本に留学して成功し、家族を作っています。
紆余曲折を経た現在
ノリコ学級は生徒から学費を取って運営するような正式な学校ではないために、特定の教師が派遣されるということはありませんでした。大崎氏も奥様も闘病生活に入ったことで帰国を余儀なくされたため、ここに滞在する日本人はいなくなりました。なので、主に日本人旅行者や日本人がボランティアという形で短期的に滞在して日本語を教えたり、現地での交流を楽しむ、そして、日本語のできるウズベク人が初心者に教える、それを管理していくのがガニシェル氏という形で日本語教育が行われてきました。
ノリコ学級が設立されてから、およそ20年、これまでに紆余曲折を経ています。まずは、このノリコ学級の活動を日本の外務省により評価され、2001年には外務省の資金によりリシタンに青年センターが作られました。このノリコ学級と青年センターは同じリシタンにありますが、徒歩で30分ほど、車では7分ほどの距離にあります。規模の小さいノリコ学級よりもはるかに大きな建物で、教室が複数あり、宿泊可能な施設として作られました。また、日本の国際交流基金からの教科書等の教材や美品が贈呈されました。このような活動が日本政府の目に留まり評価されたことでそこで、2000年代終盤から日本の経済産業省の青年海外協力隊(JICA)がここリシタンに派遣されるようになしました。日本政府の支援が入ることで、長期に滞在して指導するJICA隊員が常駐し、リシタンでの日本語教育や文化交流は最盛期を迎え活発化しました。
しかしながら、各種の事情により青年海外協力隊は2015年を最後に撤退。その後、あいついて訪れたボランティアの日本人滞在者の他に民間の会社から派遣された常駐の日本人の日本語教師が数年間滞在していましたが、2019年からは基本的に常駐する日本人はいないのが現状で、常駐者を模索しているようです。
これまでNORIKO学級を支えてきたRJCもメンバーの高齢化が進み、特に大きな活動は行っておらず、長年ホームページは更新されていなかったのですが、ついに閉鎖されてしまいました。
リシタンへの行き方
前置きはこれくらいにして、恐らくこのブログを読んでいる方が最も欲しい情報であるこのウズベキスタン・リシタンにある場所への行き方や滞在費等についてまとめていきます。
まず、ウズベキスタンは2018年よりビザが免除されています。以前、2011年に渡航した時は大使館でのビザ申請が必要で、日程を提出したり、電話で発行を確認したりと結構面倒だったので、ビザ免除で気軽に訪問できるようになりました。これも、カリモフ大統領が死去し、後任のミルズィヤエフ 大統領の開放路線、観光重視の表れです。
ウズベキスタンのタシケントまではアシアナ航空か大韓航空のソウル仁川経由が最も安価でポピュラーな行き方です。タシケントの空港もターミナルビルが新しくなり快適になりました。面倒な税関申告の提出も不要になりました。
タシケントからリシタンへ
タシケントからリシタンまではおおまかに二つの行き方があります。それは、鉄道によるものと乗り合いタクシーによるものです。双方ともメリット・デメリットがあります。
①鉄道による行き方
鉄道は2016年にカムチクトンネルが開通したことでフェルガナ盆地とタシケントが結ばれました。ソ連時代まではタジキスタンのホジャン度を経由して鉄道が運行されていたのですが、独立以降別の国になり、タジキスタンとの関係悪化から運行が停止されていました。そこで、タジキスタンを迂回する形でカムチック峠にトンネルを掘り、2016年に首都タシケントとの鉄道が運行開始されました。
タシケントのターミナル駅は二つあり、フェルガナ盆地へはタシケント南駅からの出発が大半です。ウズベキスタン鉄道で詳しい時刻表が乗っています。言語はロシア語ですが、ТАШКЕНТ Ц(タシケント中央駅)、ТАШКЕНТ ЮЖ(タシケント南駅)が分かれば、そう難しくないでしょう。リシタンへはコーカンドまで行きます。コーカンドへ向かう列車はアンディジャン (АНДИЖАН )行きとなります。列車番号では062、098、391、398等で所要時間は4時間程度です。運行日に注目し、Пн. (月曜日)Вт(火曜日). Ср.(水曜日) Чт.(木曜日) Пт.(金曜日)、Сб.(土曜日)、 Вс.(日曜日)と書いてある曜日のみの運行となります。料金は安く、だいたい2018年時点では比較的新しい車両で4万6千スム(約650円)でした。もっと安い切符もあります。切符はネットでクレジット決済での購入も可能ですが、駅の窓口で購入した方が確実です。駅での購入はウズベクスムの現金のみです。タシケント駅、南駅どちらでも購入できますが、切符窓口は駅舎とは別の建物になっています。
タシケント駅、南駅にはバスもありますが、Yandex.Taxi (ヤンデックスタクシー)のアプリで呼び寄せるタクシーの移動が便利で、だいたい市内中心部では1万スム前後と格安です。コーカンド駅からリシタンまでは安く行けるバスもありますが、タクシーでだいたい3万スムあれば問題ないでしょう。タクシーの場合はガニシェル氏に電話すれば運転手に場所を伝えてもらえるので、そのまま滞在先まで行くことができます。バスの場合はリシタンのバスターミナルから自力で行くことになるのでタクシーのほうが便利です。
タシケントからトータルで9万スムはあれば問題なく行け、バスや価格の安い車両にすれば6万スムで行くことも可能でしょう。
②乗り合いタクシーによる行き方
乗り合いタクシーはタシケント南部郊外のクイルックバザールの近くから出ています。この場所を探すのが実は大変なのです。この場所まではアプリで行くかバスで行きます。バスの場合、路線によってどこで降ろされるかはよく分からないので大変でしょう。乗り合いタクシーは地図でこの場所に行くことが必要です。
乗り合いタクシー乗り場はGooglemap上では”アフトスタンツィヤ・クイリュケ・ナ・チルチクAvtostantsiya Kuylyuke Na Chirchik”と書かれた場所の近くにあり、バスターミナルの反対側であることに注視します。なお、市バスでクルイックバザールへ向かう場合う、停留所は路線によって異なるために、運転手に聞いて降ろされた場所から、この地図上の乗り合いタクシー乗り場まで歩いていきます。
大きな荷物を持った旅行客がこのあたりを通りかかると、運転手や客引きか声をかけられるので、すぐわかると思います。だいたい、アンディジャン?、コーカンド?といった言葉を投げかけられますが、ここではリシタン!と言って交渉します。ウズベク語ではリシトゥン!と発音すると通じやすいです。なお、ここで値段交渉が必要になり、日本人だと分かるとたいてい高い値段を吹っ掛けられます。だいたい、最初は10万スムから始まります。座席の違いや時間帯によって異なりますが、平均的には6~8万スム程度が相場となります。言葉が通じない相手との交渉は骨が折れるものです。基本的に英語は全く通じないので、電卓で数字を見せて交渉しますが、ロシア語かウズベク語が話せない場合はガニシェル氏に電話して交渉してもらうのが一番簡単でしょう。もし値段が高い場合は、別の車に変わりましょう。ただ、時間によってはなかなか捕まらない場合もあります。交渉だけで20分くらいかかることも一般的です。やはり、午前中に行くのがベストです。無事に値段交渉が住んでも、満席にならないと出発しないので、車に乗ってから1時間以上待つことは覚悟しておきましょう。一般的には、前に1人、後ろに3人の乗客を乗せて出発します。そして、2~3時間ほどでカムチック峠に到着します。カムチック峠は標高2268mの高さにあります。ここを超えるとフェルガナ地方に入ります。かつては、このフェルガナ地方へ入る場合、外国人の場合は車を降りてパスポートを持ってブースに行き、審査官による入境手続きが必要でしたが数年前に廃止になりました。かつてはタジキスタンとの国境が近いために、物々しい雰囲気が漂っていましたが、だいぶ穏やかになっていますがそれでもカムチックトンネルでは兵士が厳重に見張っています。
そして、そこからちょっと行った場所で昼食や休憩となる事が多いと思います。チャイハナのような場所で運が良ければ、同乗者がごちそうしてくれます。そこから、さらに1時間半~2時間ほどでコーカンドを経由してからリシタンに到着。ガニシェル氏に電話して滞在先まで連れて行ってもらいましょう。
以上、二つの行き方がありますが、荷物が多い場合は乗り合いタクシーの方が便利ですし、タシケントからタクシーを1台まるまるチャーターすることも考えられます。3人で割れば一人20~30ドル程度で済みます。また、冬季はカムチック峠が積雪により通行不可となることもあるので、鉄道の方が便利かもしれません。鉄道が開通する以前はフェルガナ空港まで飛行機で飛ぶ行き方も主流でした。その場合、フェルガナ空港からリシタンへ向かうことになりますが、当然ながら料金は最も高くなります。
ガニシェル宅の場所はだいたいこのあたりになります。
これで晴れてリシタンに到着です。次回はリシタンでの滞在場所やNORIKO学級、青年センター、リシタンでの過ごし方について書きます。
大変有意義なブログでした。詳細なアドバイス感嘆しました。是非時間を作って訪ねようと思います。次回ブログも楽しみにしています。ありがとうございました。まり
返答が遅れましてすいません。コメントいただきありがとうございます。是非、いつか訪問してください。