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Archive for the ‘uzbekistan’ Category

さて、今回は前回のような長文よりも、現地での滞在先、ノリコ学級での指導について書いていきたいと思います。

料金は一泊3食付き 30USドル

リシタンでの滞在先

リシタンでの滞在先はよっぽどの事でない限りは、ガニシェル氏が運営する民宿での滞在となります。と言うのも、ウズベキスタンではビザが免除されましたが、滞在登録(ロシア語でレギストラーツィア:Регистрация)制度は残っています。この制度はソ連時代に外国人の把握先を知ることを目的として制定された制度であり、スパイ活動監視目的の側面もありました。ウズベキスタンではこの制度が厳格に残っており、ウズベク人であっても国内他地域での滞在は登録制となっています。ただ、新大統領の誕生で必要なくなったとの情報もありますし、外国人に対しても撤廃されるとの情報もあります。ただ、現時点では滞在登録を発行してる宿泊施設で滞在しない限り、最悪投獄される可能性があります。違反をした場合は他の旅行者に迷惑をかけることになるので絶対にルールを守りましょう。

さて、以前2011年に滞在した時はガニシェル宅では民宿として認めておらずに滞在登録はできまでんでした。そのために、オーヴィルに行き滞在登録を発行してもらって宿泊者を受け入れていました。そのために、仲介人が必要なこともあり余計な費用がかかっていました。しかし、2016年あたりにガニシェル宅は正式に民宿としての許可をもらったことで、直接滞在登録が可能となり便利となりました。ただ、滞在証明期日は支払った資金によって融通が利いていたので、ガニシェル宅以外でのリシタンの各家庭にでの滞在も可能でした。民宿として認定された現在では、ガニシェル宅以外では滞在登録ができないので、仲介人による滞在登録の発行をしない限りは原則不可となっています。そして、滞在登録はチェックアウト時にしか発行できません。

滞在先は二つ

ガニシェル氏が運営する民宿は大まかに二つに分かれます。

陶器工房

 

工房の宿泊施設室内

 

リシタン陶芸工房の一角にあり、NORIKO学級に隣接する宿泊場所・・・ここは、ガニシェル宅の向かい側にある陶芸家の兄のアリシェル氏の工房に隣接した場所で、NORIKO学級がある場所です。設立当初より宿泊可能となっていましたが、2015年前後にリフォームされて、二つの部屋が作られました。とてもきれいで清潔。部屋の中はロフト形式で下に机を椅子、上に布団をしけるスペースがある二階建てような作りです。壁には陶器が飾られていたり、ブルーのライトが付くようになっておりととてもオシャレです。このような部屋が両側にあり、トイレとシャワーはこの二つの部屋で共同です。トイレも新しくて清潔です。シャワーもお湯がふつうに出ますが、水除けカーテンは無いのでしゃがんで浴びることになります。

基本的にかなり快適に過ごす事が可能ですが。ただ難点は、部屋には光が入りずらいので暗く、ガス設備があるのですが、故障が多くて冬季に稼働するかどうかは分かりません。また、食事はガニシェル宅のダイニングルームまで歩いて行かないといけません。さらに、この工房の部屋にはWI-FIはありますが有料であり基本的に使えません。よってWIFIはダイニングルームで使うことになります。

ガニシェル宅の門構え

ガニシェル宅・・・ガニシェル宅には立派な門構えのある典型的なウズベク民家です。部屋は中庭を通して複数の建物があり、ガニシェル氏の家族、長男家族が住んでいます。そして、そのうち開いている部屋に宿泊することが可能です。主に旅行者が泊まる部屋は独立の建物となっているためプライバシーは確保されます。ただ、難点は部屋の中は狭くて暗く、トイレやシャワーを浴びるためには、一度屋外に出ないといけないことです。さらに、シャワーの水はちょろちょろしか出ませんので、桶にお湯をためてから体にかけることになります。特に冬場は暖房施設も無いために、酷寒となり、運が良ければヒーターの設置でしのぐことになりますが、そうでない場合は布団の中で凍える以外にありません。特にトイレに行くのに屋外に出る事は冬場では相当きついと思いますし、リシタン工房に比べると快適さはぐっと落ちます。ただ、よりグレードの高い客人には暖房施設のあるガニシェル氏や長男家族が寝泊まりする建物の中の一つの部屋を提供されることもありますのでその場合は、快適度が増しますが、普通はこの小さな部屋になります。

利点は部屋の中でもシグナルは弱いながらもWI-FIが使える事とダイニングルームも近いので、そこではそれなりのWI-FIが使えます。ただ、ウズベキスタンでのWI-FIは制限されることが多く、画像や動画を見る場合は時間がかかりとても不便です。

以上、この二つになりますが、ガニシェル宅の中での快適な部屋での滞在は、グレードの高いゲストでないと無理であり、基本的には狭くて暗くて寒い②よりも①のほうがはるかにいいでしょう。さらに、夏の場合は蚤の被害もあります。

:番外編

青年センター・・・①と②が満室で開いてない場合は、青年センターの一階に宿泊施設があります。一応部屋とベッドが置いてあり、トイレとシャワーのあります。ただ、設備は老朽化し、暖房設備は無く、水もあまり出ないために環境としてはあまりよくありません。青年センターだとガニシェル宅とは徒歩で30分掛かるために食事は自炊となります。また、生徒が宿泊してる場合もあるので利用できないこともあります。なのでよっぽどでない限り青年センターではなく一般的には①と②になるでしょう。

 

リシタンでの食事

美しく盛られた食事

基本的に希望しない限りは一泊3食付きとなっています。朝食はノンとバターや蜂蜜、卵焼きやゆで卵、果物、自家製ヨーグルトが出る簡素なものです。昼食は日によって豪華な日と前日の残り物の場合がありますが、ウズベク料理が提供されます。夕食も日によって豪華な日との落差が激しいですが、豪華な日の場合はサラダやデザートまででるフルコースになります。提供される料理は長男のお嫁さんかお手伝いさんが作るウズベク料理でラグマン、プロフ、マントゥ、チュチュワラ、マスタバ等の繰り返しですが、とても美味しいです。日本人向けに油分を控えたり食材を吟味した料理となっており、環境の違いから下痢、腹痛になりやすい日本人に配慮されています。食事には必ず温かいお茶が出ます。これは食材の解毒作用を担っていますので、暑い時期でも冷たい飲み物はまず出ません。

食事についてはワンパターンであってりする以外は特に不満はないと思います。ただ、節約するために食事抜きで滞在する人もいて、その場合は街中で食事するか、スーパーで買いこんで食べる事になりますが、宿泊者用のキッチン施設は無いので共有となるために自炊は難しく、むしろそこまでする意義はあまりないと思います。学校へ通うために昼食だけ抜くのは一般的です。

昼食は一度家へ帰って食事をしますが、外食であったり、生徒と一緒に食べたり、生徒が料理してくれる場合もあります。ただ、その場合は衛生面や日本人の体に合うからは不明です。たいてい、日本人がそのような場所で作られた食べ物を食べると下痢になる事も少なくありません。

リシタンの街中にはハンバーガーを食べたり、バザール周辺にも安い食堂がたくさんあり、そこで食べる事も可能です。200円もあれば満足な食事が可能です。

以上、料金は一泊3食付きで30米ドル となります。これはウズベキスタンの物価水準からしたら、かなりの割高だと思いますが、一応、NORIKO学級運営(青年センター)への寄付金も入ってるそうです。2011年当時は値段は決まっておらず、交渉が必要でしたがその後、近年になって民宿として整備され価格が決まったそうです。ただ、数週間に及ぶ長期滞在の場合は値切ることが可能ですが、それは本人の努力次第となります。このボッタクリの値段だと一泊で通り過ぎるバックパッカーは泊まらない人も多いです。その辺は、寄付金ということで理解しましょう。ただ、基本的に一泊3食付きなのでこれ以外に水代等を除けばあまりお金はかかりません。

日本語学校について

NORIKO学級の室内 ほとんど使われてない

青年センターの玄関 2011年当時

日本語学校は二つの場所に分散されています。これが混乱の原因となっています。ひとつはNORIKO学級で、これは工房の中にあります。大崎さんが作った教室なのですが、現在ではあまり使われておらず放置されています。教室の中はもう何年も時が止まったままであるかのような雰囲気です。建物の前には大崎さんの墓石があります。なぜなら部屋は一室しかなくて生徒が入りきらない場合もあるからです。ただ、冬季は暖房設備があるとされてるために、ここに生徒を集めることもあるそうですが、近年は暖房設備が故障等で使えないという話も聞かれるので、冬でもあまり使われていないそうです。

日本政府の支援で建てられたことが書いてある

現在は主に2001年に日本の外務省により完成した青年センター(YOUTH CENTER)の建物を利用しています。2階建ての建物で一階にはキッチンと宿泊可能なトイレ付きの部屋、教材置き場、管理室、2階には教室が3部屋あります。ただ、全体的にはかなり老朽化しており、朽ちているという印象さえ抱きます。筆者が最初に来た当時と近年を比べても老朽化が著しくなったと実感するばかりでした。

建物にあるNORIKO-GAKKYUの看板

リシタンの日本語教室と言えば大崎さんの作ったNORIKO学級を示しますが、実際には使われてるのは青年センターというおかしなことになっているのです。ただ、来ている生徒は自己紹介では『私はNORIKO学級の生徒です。』と言うのです。だからややこしくなります。この青年センターの場所を使ってNORIKO学級を開いているということでしょうか。

大崎先生のお墓

ガニシェル宅から青年センターまではおよそ2㎞、徒歩で30分くらいかかります。3食付きの場合は昼食時はガニシェル宅に一旦帰るので、歩くのが面倒な場合はその辺を走ってる車を止めてタクシーとして利用したり、バスやミニバスを利用して帰ることも多いです。料金は1000スムと格安です。いちいち帰るのが面倒くさい場合は、昼食は抜いた料金にするといいと思います。生徒は昼食も青年センターで食べる人もいて、近くの商店で即席めんを買ったり、サムサを買って食べたりと様々です。生徒と昼食も一緒に食べると楽しみも増します。

授業について

NORIKO学級の生徒達。前列にガニシェル校長

授業は月曜日から土曜日までは午前が朝9時半~11時過ぎ、午後は2時頃~4時過ぎとなります。ただ、生徒は自由に個人の都合に合わせて教室に来るために誰が何時に来るという事は一切決まっていません。また、土曜日は生徒が少ないこともあり、教室が開かれなこともあります。全般にウズベキスタンの学校は午前と午後に分かれているため、午前に学校がある生徒は午後に来て、午後に学校がある生徒は午前に来ることが多いですが、圧倒的に午後にNORIKO学級に来る生徒が多くなります。

また、あくまでもボランティアでの指導なので、予定があれば教室に行かなくてもいいし、土曜日は行かないボランティア講師も少なくありません。ただ、ガニシェル氏にすれば日曜日以外、生徒が待ってるので毎日学校で授業をしてほしいようなことを言われます。

指導方法はなんでもありです。ボランティア講師なので日本語教師の資格や経験が無い人もたくさん教えています。ただ、日本人であっても訓練や知識が無いと、外国人に体系的に文法を指導しながら日本語を教えるのはとても難しいために、ひらがなやカタカナを覚えたり、単語、語彙を覚えたり、歌を歌ったりゲームをしたりする授業ならだれでもできると思います。文法や説明等は生徒の上級者がウズベク語で一緒に説明行てくれることも多いので助かります。日本語能力試験前だと試験対策を要求されますが、これは日本語教師としての訓練を植えていない日本人はなぜこうなるかの文法的な説明ができないのでかなり難しいと思います。

教室には黒板とチョークがあります。また、CD教材や絵カード等もいくらかあります。けん玉、ラジカセと大きなテレビもあります。テキストは日本からたくさん送られているためにたくさんあります。ただ、有効には使われていないのが現状で、ほったらかしにされた教材もたくさんあります。生徒達が借りたまま私物化してか、そのまま本棚から無くなってしまう事も少なくないそうです。

誰がどのクラスをどのカリキュラムで教えていくのか?そんなルールは無いので適当にだいたい決まります。複数の日本人がいる場合は、自然とどの生徒がどの先生の教室に入ってくるかは流れで決まってきます。本当は体系だって指導すべき事なのだけれども、かつてと異なり、短期ボランティア講師しかいない現状ではなかなか難しいのです。むしろ、生徒の上級者が毎日指導してくれることで、生徒の日本語力が身についていくのです。そして、日本人とはとかく会話の練習ができるだけでもどんどん上達していくのです。そうやってリシタンの子供たちは日本語を自然と身につけていったのだから。

ガニシェル氏は生徒から校長先生と呼ばれていますが、基本的には日本語の指導はしません。たまに学校に見回りに来ては生徒に指示したり、学校の掃除をやらせます。校長先生が来校すると生徒は緊張し、急にまじめになって態度が変わるのはどこの国でも同じ事ですね。

部屋や教室の鍵の管理はガニシェル氏より任命された生徒がしています。また、守衛さんが別の建物に常駐して泊まり込みで建物全体を管理しています。

以上、リシタンでの滞在や学校についてまとめました。

 

NORIKO学級についてはFacebookのサイトが開設されています。

・https://www.facebook.com/norikouzb/・・・NORIKO学級Facebook公設サイト

 

 

 

 

 

 

 

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前回のブログ更新が1年前、シベリア滞在記の続編を書くつもりが1年も放置してしまいました。今回はそれよりもぜひ書いておきたい話題があるので、そちらを書くことにしました。

実は2011年と昨年の計二度にわたり、延べ2か月間、ウズベキスタンのフェルガナ地方のキルギス国境の街リシタン(Rishton)に滞在したことがあります。そこでは、人口2~3万人程度の小さな町なのですが、日本人が歩いていると子供たちが『こんにちわ』と声をかけられるような日本語が響き渡る町であります。

さて、リシタンとはどういう町なのかについてはwikipediaの項目のリシタンを参照してください。大まかに言うと、ウズベキスタンの首都タシケントからおよそ230㎞離れたフェルガナ盆地にあるキルギスとの国境を接する町なのです。日本で言えば地方の農村部にあたります。ここは陶器産業が有名であり、各地にはリシタン陶器の工房があり、日本や世界でも高い評価を得ています。

日本語が響く街リシタン

そして、そんな地方の農村部には現在、日本語を勉強する子供たちが沢山いて、日本との深いつながりが生まれています。そこに、日本とのつながりが生まれたのが1990年代半ばになります。大手企業に勤める日本人技術者の大崎さんという方が仕事の関係で1990年代にウズベキスタンフェルガナ地方に頻繁に渡航し、通訳者のガニシェル氏に出会い過ごします。ウズベキスタンのかつての日本を思わせるようなまだまだ貧しいこの農村部を気に入り、そこでの子供たちに日本とのつながりの場を提供したいと考えました。退職後、夫妻でここリシタンに退職金等の私財を投入して日本語を無料で学べる学校を作りました。それが、1999年になります。ガニシェル氏はリシタン出身の著名な陶芸家であるアリシェル氏の弟で、アリシェル氏の陶器工房の中の小さな部屋を改築して日本語教室を作りました。大崎さんの奥方の名前を使って『ノリコ学級・Noriko Gakkyuu』と名付けられました。そこでは、学費を取らずに子供たち、あるいは大人も含めてリシタンの人々が自由に日本語を勉強したり、日本文化に触れる機会を提供しようという目的で作られ、学費を徴収したりするのではなく、子供たちの遊び場としての目的で設置されました。その後、大崎氏がガンに倒れてしまい、奥様も病気になってしまいました。そして、2005年に大崎氏が逝去されました。その後、大崎氏の活動を継続して支えていこうとして、政府には登録はされれていませんが、NPO団体のような組織のRJC(リシタンジャパンセンター)を大崎夫妻の友人が中心となって設立しました。

RJCは大崎夫妻の友人の他、シベリア抑留経験者やロシア語通訳者、元外務省ウズベク大使、中央アジア研究者等のウズベキスタンに関連の深い人々が参加し、基金を設立してこのノリコ学級を支えていこうとして発足されました。そして、ウズベキスタンのリシタンでの管理者が通訳者であるガニシェルナジロフ氏となって、現在に至ります。およそ20年間近くに渡り、この小さな町で日本語教育が行われ、多くの日本人が渡航滞在し、また、多くのウズベク人が日本に留学して成功し、家族を作っています。

カムチック峠への道

紆余曲折を経た現在

ノリコ学級は生徒から学費を取って運営するような正式な学校ではないために、特定の教師が派遣されるということはありませんでした。大崎氏も奥様も闘病生活に入ったことで帰国を余儀なくされたため、ここに滞在する日本人はいなくなりました。なので、主に日本人旅行者や日本人がボランティアという形で短期的に滞在して日本語を教えたり、現地での交流を楽しむ、そして、日本語のできるウズベク人が初心者に教える、それを管理していくのがガニシェル氏という形で日本語教育が行われてきました。

ノリコ学級が設立されてから、およそ20年、これまでに紆余曲折を経ています。まずは、このノリコ学級の活動を日本の外務省により評価され、2001年には外務省の資金によりリシタンに青年センターが作られました。このノリコ学級と青年センターは同じリシタンにありますが、徒歩で30分ほど、車では7分ほどの距離にあります。規模の小さいノリコ学級よりもはるかに大きな建物で、教室が複数あり、宿泊可能な施設として作られました。また、日本の国際交流基金からの教科書等の教材や美品が贈呈されました。このような活動が日本政府の目に留まり評価されたことでそこで、2000年代終盤から日本の経済産業省の青年海外協力隊(JICA)がここリシタンに派遣されるようになしました。日本政府の支援が入ることで、長期に滞在して指導するJICA隊員が常駐し、リシタンでの日本語教育や文化交流は最盛期を迎え活発化しました。

しかしながら、各種の事情により青年海外協力隊は2015年を最後に撤退。その後、あいついて訪れたボランティアの日本人滞在者の他に民間の会社から派遣された常駐の日本人の日本語教師が数年間滞在していましたが、2019年からは基本的に常駐する日本人はいないのが現状で、常駐者を模索しているようです。

これまでNORIKO学級を支えてきたRJCもメンバーの高齢化が進み、特に大きな活動は行っておらず、長年ホームページは更新されていなかったのですが、ついに閉鎖されてしまいました。

リシタン陶器

リシタンへの行き方

前置きはこれくらいにして、恐らくこのブログを読んでいる方が最も欲しい情報であるこのウズベキスタン・リシタンにある場所への行き方や滞在費等についてまとめていきます。

まず、ウズベキスタンは2018年よりビザが免除されています。以前、2011年に渡航した時は大使館でのビザ申請が必要で、日程を提出したり、電話で発行を確認したりと結構面倒だったので、ビザ免除で気軽に訪問できるようになりました。これも、カリモフ大統領が死去し、後任のミルズィヤエフ 大統領の開放路線、観光重視の表れです。

ウズベキスタンのタシケントまではアシアナ航空か大韓航空のソウル仁川経由が最も安価でポピュラーな行き方です。タシケントの空港もターミナルビルが新しくなり快適になりました。面倒な税関申告の提出も不要になりました。

タシケントからリシタンへ

タシケントからリシタンまではおおまかに二つの行き方があります。それは、鉄道によるものと乗り合いタクシーによるものです。双方ともメリット・デメリットがあります。

①鉄道による行き方

鉄道の車内

鉄道は2016年にカムチクトンネルが開通したことでフェルガナ盆地とタシケントが結ばれました。ソ連時代まではタジキスタンのホジャン度を経由して鉄道が運行されていたのですが、独立以降別の国になり、タジキスタンとの関係悪化から運行が停止されていました。そこで、タジキスタンを迂回する形でカムチック峠にトンネルを掘り、2016年に首都タシケントとの鉄道が運行開始されました。

タシケントのターミナル駅は二つあり、フェルガナ盆地へはタシケント南駅からの出発が大半です。ウズベキスタン鉄道で詳しい時刻表が乗っています。言語はロシア語ですが、ТАШКЕНТ Ц(タシケント中央駅)、ТАШКЕНТ ЮЖ(タシケント南駅)が分かれば、そう難しくないでしょう。リシタンへはコーカンドまで行きます。コーカンドへ向かう列車はアンディジャン (АНДИЖАН )行きとなります。列車番号では062、098、391、398等で所要時間は4時間程度です。運行日に注目し、Пн. (月曜日)Вт(火曜日). Ср.(水曜日) Чт.(木曜日) Пт.(金曜日)、Сб.(土曜日)、 Вс.(日曜日)と書いてある曜日のみの運行となります。料金は安く、だいたい2018年時点では比較的新しい車両で4万6千スム(約650円)でした。もっと安い切符もあります。切符はネットでクレジット決済での購入も可能ですが、駅の窓口で購入した方が確実です。駅での購入はウズベクスムの現金のみです。タシケント駅、南駅どちらでも購入できますが、切符窓口は駅舎とは別の建物になっています。

タシケント駅、南駅にはバスもありますが、Yandex.Taxi (ヤンデックスタクシー)のアプリで呼び寄せるタクシーの移動が便利で、だいたい市内中心部では1万スム前後と格安です。コーカンド駅からリシタンまでは安く行けるバスもありますが、タクシーでだいたい3万スムあれば問題ないでしょう。タクシーの場合はガニシェル氏に電話すれば運転手に場所を伝えてもらえるので、そのまま滞在先まで行くことができます。バスの場合はリシタンのバスターミナルから自力で行くことになるのでタクシーのほうが便利です。

タシケントからトータルで9万スムはあれば問題なく行け、バスや価格の安い車両にすれば6万スムで行くことも可能でしょう。

②乗り合いタクシーによる行き方

 

乗り合いタクシーはタシケント南部郊外のクイルックバザールの近くから出ています。この場所を探すのが実は大変なのです。この場所まではアプリで行くかバスで行きます。バスの場合、路線によってどこで降ろされるかはよく分からないので大変でしょう。乗り合いタクシーは地図でこの場所に行くことが必要です。

乗り合いタクシー乗り場はGooglemap上では”アフトスタンツィヤ・クイリュケ・ナ・チルチクAvtostantsiya Kuylyuke Na Chirchik”と書かれた場所の近くにあり、バスターミナルの反対側であることに注視します。なお、市バスでクルイックバザールへ向かう場合う、停留所は路線によって異なるために、運転手に聞いて降ろされた場所から、この地図上の乗り合いタクシー乗り場まで歩いていきます。

大きな荷物を持った旅行客がこのあたりを通りかかると、運転手や客引きか声をかけられるので、すぐわかると思います。だいたい、アンディジャン?、コーカンド?といった言葉を投げかけられますが、ここではリシタン!と言って交渉します。ウズベク語ではリシトゥン!と発音すると通じやすいです。なお、ここで値段交渉が必要になり、日本人だと分かるとたいてい高い値段を吹っ掛けられます。だいたい、最初は10万スムから始まります。座席の違いや時間帯によって異なりますが、平均的には6~8万スム程度が相場となります。言葉が通じない相手との交渉は骨が折れるものです。基本的に英語は全く通じないので、電卓で数字を見せて交渉しますが、ロシア語かウズベク語が話せない場合はガニシェル氏に電話して交渉してもらうのが一番簡単でしょう。もし値段が高い場合は、別の車に変わりましょう。ただ、時間によってはなかなか捕まらない場合もあります。交渉だけで20分くらいかかることも一般的です。やはり、午前中に行くのがベストです。無事に値段交渉が住んでも、満席にならないと出発しないので、車に乗ってから1時間以上待つことは覚悟しておきましょう。一般的には、前に1人、後ろに3人の乗客を乗せて出発します。そして、2~3時間ほどでカムチック峠に到着します。カムチック峠は標高2268mの高さにあります。ここを超えるとフェルガナ地方に入ります。かつては、このフェルガナ地方へ入る場合、外国人の場合は車を降りてパスポートを持ってブースに行き、審査官による入境手続きが必要でしたが数年前に廃止になりました。かつてはタジキスタンとの国境が近いために、物々しい雰囲気が漂っていましたが、だいぶ穏やかになっていますがそれでもカムチックトンネルでは兵士が厳重に見張っています。

そして、そこからちょっと行った場所で昼食や休憩となる事が多いと思います。チャイハナのような場所で運が良ければ、同乗者がごちそうしてくれます。そこから、さらに1時間半~2時間ほどでコーカンドを経由してからリシタンに到着。ガニシェル氏に電話して滞在先まで連れて行ってもらいましょう。

以上、二つの行き方がありますが、荷物が多い場合は乗り合いタクシーの方が便利ですし、タシケントからタクシーを1台まるまるチャーターすることも考えられます。3人で割れば一人20~30ドル程度で済みます。また、冬季はカムチック峠が積雪により通行不可となることもあるので、鉄道の方が便利かもしれません。鉄道が開通する以前はフェルガナ空港まで飛行機で飛ぶ行き方も主流でした。その場合、フェルガナ空港からリシタンへ向かうことになりますが、当然ながら料金は最も高くなります。

ガニシェル宅の場所はだいたいこのあたりになります。

これで晴れてリシタンに到着です。次回はリシタンでの滞在場所やNORIKO学級、青年センター、リシタンでの過ごし方について書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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